躙(にじ)り口を入れば 【SDGs 平等】

   「躙(にじ)る」という日本語がある。動詞で、「座ったまま、少しずつひざを使って進む。」という意味だ(大辞泉)。現在では、茶道の世界でしか使われていない言葉だと思う。

   茶会に客人が招かれて小間(四畳半以下)の茶室に出入りする玄関にあたる場所を「躙(にじ)り口」と呼ぶ。実際に茶室に行かれた方はご経験済みだと思うが、これがまたものすごく狭い。寸法は、高さが2尺2寸から2尺3寸(約67㎝)、幅が2尺から2尺1寸(約63㎝)なので、屈(かが)まないと茶室に入れない。入り方は、まず躙り口の手前の石(沓脱石(くつぬぎいし)、または踏み石)の上で草履(ぞうり)を脱ぎ、屈んで正座の体制で茶室内に入った後、両手をグーにして親指で畳を押しつつ体を前に進む。その後、180度向きを変えて沓脱石の上の草履の裏を合わせて石の横に立てかける(註:実際の作法には入る時に扇子を置いたり、戸の開け閉めの作法も加わる)。ようするに、狭い茶室の玄関である躙り口では、「躙る」しか入りようがないのだ。

   躙り口から茶室に入る作法を考案したのは千利休(1522-1591)である。利休の生きたのは、戦国の時代であり、封建的な上下関係に支配された世であった。だが、利休は、いかなる武将にも茶室に入る時に刀などの武器をはずし、頭を垂れて躙り口から入ることを求め、いったん茶室に入れば、そこは「上も下もない非日常的な空間」であることを示したのである。織田信長や豊臣秀吉をはじめ、多くの殿様や武士らを茶会に招いた際、躙り口から頭を垂れて正座をして入らなければならなかったり、普段は屋敷で家来よりも高い場所(上段、中段、下段など位による差はある)に座っているのに、茶を点(た)てる主人と同じ高さに座ったり、招かれた側の「えらい人々」はさぞかし戸惑ったに違いない。しかしながら、利休亡き後も現在に至るまで躙り口から同様に茶室に入るのが受け継がれてきたのは、その時代じだいの人々が、躙り口から入ることの精神的な意味をしっかりと理解してきたからだと思う。

   もともと人は平等で、本来上も下もないのだ。私たちは日常に暮らしていると、この当たり前だが当たり前でない事実をものの見事に忘れてしまう、というか、無意識に人との関係を「自分の方が上」「自分の方が下」と定義づけて、その定義に沿って自分の感情を合わせていくのである。

   心理学的に言えば、人がコミュニケーションをする相手に対する感情は大きく分けて2つしかない。その人が「好き」か「嫌い」かである。「好き」と決めた相手が、自分よりも立場や人間性、能力などが「上」であると感じた場合、「尊敬や依存」という感情が働いて、その人を頼ったり、その人に言われたことを守ったり嫌われたりしないような行動をとる。逆に相手が自分よりも「下」であると判断した場合、「慈愛や援助」の感情によって、かわいがったり、無償で何かを与える行動を起こすようになるのである。反対に「嫌い」と心が決めた相手に対しては、自分の方が「上」だと思える時には相手に対して「軽蔑や攻撃」の感情が湧き、服従させようとしたり、ハラスメントや虐待などの行為に及ぶケースもある。自分の方が相手より「下」だと思えば、「恐怖、回避」の感情が湧き、その人とのコミュニケーションでは緊張したり、早くその場から逃げ出したい衝動に駆られるのである。対等の立場と意識して付き合う友人、同僚、伴侶に対しても常に「上」「下」の定義づけによって日常の中で相手に取る態度が決められているのである。

   ここで大事なことは、相手との上下関係を定義しているのは常に自分を中心とした相対的な比較なのだ。そして、その定義に必要な材料、例えば財産、年齢、地位、学歴、人間性、経験などがどうだったら「上」で、どうだったら「下」なのかを決めているのも自分なのだ。東大を卒業し、財布に常に50万円の現金を持ち歩き、異性に人気が高い部長がいた場合、「とても羨ましく尊敬できる人」と評価するその人の部下もいれば、その同じ人をハーバード大を卒業し、預金に10億円の資産を持ち、人望も厚い大会社の社長から見た時の評価は違う。人に対して上下を決定づける絶対的な定義や条件など元から存在しないはずである。

   富める国に暮らす人たちの生活のために、貧困の国の労働力が使われ、彼らの大切な森や資源、生態系が破壊される。それが「当たり前」という定義がまかり通る場合、果たして経済力、もしくは貧富の差とはそんなに上下を決定づける要因なのだろうか、という疑問を持つ。SDGs17目標のうち、10番目の「人や国の不平等をなくそう」という表現は、富める国から見た場合には「上」からの目線感覚が芽生えかねない。「人や国はもともと平等であることを改めて再認識しよう」という意識が重要だと思う。

   茶室の狭い入口から入る際に刀を置き、頭を垂れて中に入った将軍には、本来の人としての価値しかない。同様に、富める国の人々も、自分が持っているものを基準として貧困国を評価するという概念を一旦すべて忘れれば、奴隷労働や経済的搾取などの貧困国に対する不平等などが当たり前となっている今の世の中を異常と感じるようになれるかもしれない。

   躙り口から入れば、人が本質的に平等であることがわかる。

 

参考文献:

斉藤勇著「対人感情の心理学」誠信書房1990 対人感情円環モデル 

安藤一重ほか著 産業カウンセリング養成講座テキスト(一般社団法人産業カウンセラー協会) 

 

パンチョス萩原 (Soiコラムライター)