憂国(ゆうこく)の偉才 【SDGs サステナビリティ】

   東大の教授になるにはどうしたら良いのだろう? いろいろネットを探ると、典型的な成功パターンは次のような感じである。まず、名だたる超難関の大学院で専門の研究を行ない、2年間で修士課程、続いて3年間で博士課程を修了し、博士号を取得することから始まる。そこから就職活動を頑張り、運が良ければ東大の教員として採用される。教員になったら助手や助教授を地道に数年間勤めた後、教授からの推薦によって講師や准教授の職をゲットし、最終的に東大教授のキャリアが開かれる…。東大教授への道は果てしなく遠い。だが話はここで終わらない。この険しさに追い打ちをかけるのが、日本における大学や公的研究機関で働くポストの少なさだ。日本は博士号取得者のために十分なポジションを増やしてこなかったため、なかなか就職できないのが現状という。さらには少子化で大学生の数も減って大学経営も厳しくなっていることから、全く希望の就職先が見つからず、期限付きの臨時講師や低賃金のアルバイトで生活をつないでいる、いわゆる 「ポスドク(Post Doctor、博士号取得後に任意の就職をしている人々)」 は 、現在でも、日本に15000人以上いるというから驚きだ。

   このように、刻苦勉励(こっくべんれい)して学問を究め、これからの日本をしょって立つべき超優秀な方々が、教授になる夢はおろか、研究所や一般企業への就職もままならず、非正規労働者や自宅でニートとなっている「高学歴ワーキングプア」は深刻な社会問題となっている。   

   ところが、かつて鯵(アジ)の漁に出ただけの少年が東大の教授になった話がある。ジョン万次郎こと、中浜万次郎(1827年-1898年)だ。彼が生まれた高知県土佐清水市のHPに掲載されている伝記を参照させて頂きながら、かいつまんで彼の波乱万丈な生涯を追ってみたい。

   中浜万次郎は、1827年に貧しい漁師の家に2男3女の次男として生まれ、病弱な兄にかわって 14歳のときに初めて仲間4人とともに漁に出かけたが、海が大荒れとなり、土佐清水市から海上760キロも離れた孤島に漂着することとなった。それから143日間、自力で飢えをしのぎ、過酷な無人島生活を送っていたが、ある日その島に海亀の卵を採るためにやってきたアメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」によって発見され、万次郎らは無事に助けられることとなる。本来ならば船がそのまま土佐清水市に寄港してくれれば万次郎は家に帰れたわけだが、当時の日本は鎖国の真っ只中の時代で、外国船は日本に近づくことさえ困難であったため、万次郎と友人らは日本に帰ることが許されなかった。ジョン・ハラウンド号船長のウイリアム・H・ホイットフィールド(当時36歳)は、彼の判断で、まず万次郎ら5人を安全なハワイへと連れていくことにした。万次郎以外の4人はハワイに残ることを決めたが、万次郎だけはアメリカ本土へ渡る決心をした。万次郎からの申し出を快く了承した船長は彼をアメリカへ連れていくことになるが、航海中にホイットフィールド船長が見た万次郎の鋭い観察力と前向きな行動力は、彼をはじめ、船員たちに高く認められ、早速、ジョン・ハウランド号からとった「ジョン・マン」という愛称をつけられることとなった。

   さて、無人島から救出されてからの2年間は海上の生活を送り、いよいよ船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港した。この時が日本人が初めてアメリカ本土の土を踏んだ瞬間である。ホイットフィールド船長は、誠実でたくましく働き者の万次郎を我が子のように愛し(のちに万次郎は彼の養子に迎え入れられた)、故郷のフェアヘーブンに連れ帰って、英語、数学、測量、航海術、造船技術などの教育を受けさせた。学校を卒業した万次郎は、捕鯨船に乗って7つの海を航海した後、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで帰国の資金を稼ぎ、漂着仲間のいるハワイに立ち寄った。そして1851年(漂流から10年後)、琉球(沖縄県)に上陸した。約半年の間、琉球に止められた後、薩摩、長崎へと護送されて取り調べを受け、翌年の夏ようやく土佐へ帰ることができた。

   万次郎は、その後土佐藩より最下級の士分として取り立てられた。これは身分制度の特に厳しかったこの時代においては、異例の出世であったが、時代は幕末の 激動の時代で、幕府も各藩も西欧の情報を必要としていたことがあった。その翌年の1853年には、あの有名なペリー提督が黒船を率いて浦賀にやってきたが、幕府は万次郎を直参として江戸に呼び寄せ、アメリカの実情を老中らの前で語らせた。万次郎はアメリカでの見聞録をありのまま伝え、この国に必要なのは開国であると熱く語った。水戸藩などの保守的な藩からはアメリカのスパイではないかと恐れられ、ペリー提督の第2回目の来航時には通訳のメンバーからはずされてしまうが、アメリカの高等教育を受けた万次郎は有能で、翻訳、造船、航海、測量、捕鯨などの仕事に従事し、日米の仲を取り持つ重要な役務を担った。33歳になった1860年、幕府は「日米修好通商条約」批准のために初の公式海外使節団をアメリカに送ることになったが、万次郎は事実上、船長兼通訳として随行艦「咸臨丸(かいりんまる)」に乗った。勝海舟や福沢諭吉らも乗せたこの咸臨丸の太平洋横断は、鎖国の終わりを告げる象徴的な出来事であった。帰国後、万次郎は、小笠原の開拓調査、捕鯨活動、薩摩藩開成所の教授就任、上海渡航を務め、ついに明治政府の開成学校(現在の東京大学)の教授に就任することとなる。漁船の難破からアメリカへ渡り、めまぐるしく働き続けた万次郎は、1898年、71歳でその生涯を閉じた。   

   近代日本の夜明けともいえる時代にあって、日米の架け橋となる幾多の業績を残した中浜万次郎は、日本ではあまり歴史書や偉人伝には書かれることは少なく、私などはこのコラムを書く前は、 7年前に「NHK総合テレビ 歴史ヒストリア 今こそ知りたい! ジョン万次郎~日本開国前夜 驚きの舞台裏~」を見たくらいである。ところが、アメリカでは万次郎の人気はとても高く、児童作家マーギー・プロイスによるジョン万次郎の伝記小説「HEART of a SAMURAI」は今でも学校の教材となっている。また、アメリカの第30代大統領のジョン・カルビン・クーリッジ・ジュニアは、「万次郎がアメリカから日本に帰国したのは、アメリカが最初に大使を日本に送ったことに等しい」と語り、スミソニアン研究所が アメリカ建国200年 で催した『海外からの米国訪問者展』において、「アメリカ見聞録」を著したイギリスのチャールズ・ディケンズらと並んでわずか29名が選ばれた中に、中浜万次郎の名前が入っている。

   歴史が大きく動いた激動の開国時代にあって、日本の未曾有の危機を救い、、板垣退助・中江兆民・岩崎弥太郎などの錚々(そうそう)たる政治家や実業家に多大な影響を与え、開国後わずか20数年で鉄道、電話、郵便といったインフラの整備、綿糸や生糸の大量生産・大量輸出を実現し、多くの学校で教鞭をふるい日本における近代教育の礎を築いたのは、極貧の漁師の家に生まれ、身分も苗字もなく 、絶望の中にあってもどんなに状況が変わろうとも、常に前を向いて憂国の志士として国の経済成長のために生きた一人の少年であった。

   今、もしも万次郎が生きていたら、SDGsの17目標中、8番目のゴールである「生産性の向上と技術革新により、持続的な経済成長を促進する」について、現代人がいかにこの国を思い、持続可能で豊かな経済国としていくべきか、についてのさまざまなアイディアを出して私たちと共に働いてくれるにちがいない。

参考文献・参照・引用サイト

『中濱万次郎~アメリカを初めて伝えた日本人~』(中濱博 冨山房インターナショナル)    
『異船異聞』(川澄哲夫 有隣堂)
『幕末日本の情報活動~「開国」の情報史』(岩下哲典 雄山閣)

総務省統計局「科学技術研究調査報告」(平成24年度)
博士人材の社会の多様な場での活躍促進に向けて – 文部科学省

ジョン万次郎資料館https://www.johnmung.info/john_syougai.htm
高知県土佐清水市https://www.city.tosashimizu.kochi.jp/kanko/g01_jyonman02.html)  

パンチョス萩原